エリア特集

REALTY PRESS
エリア特集「高輪」

2020年2月14日

JR山手線の新駅誕生を皮切りに大きく変わる、
戦国時代からの歴史が刻まれた由緒ある街、高輪。

今年3月、JR山手線49年ぶりの新駅となる「高輪ゲートウェイ」駅が開業する高輪は、
江戸時代は大名の中屋敷や下屋敷、神社が数多く設けられていた街です。
宮家の邸宅地にも選ばれ、都内有数の邸宅街としての歴史を重ねながら、
大規模な再開発で国際ビジネス都市へと変貌を遂げる「高輪」をご紹介します。

景勝の地として知られた街は江戸の南の玄関口

高輪は地形を見ても分かる通り、JR線が走る低地から白金方面へと上っていく丘陵地を形成しています。地名もこの地形が元になっており、丘陵の中心部に走る二本榎通りが一本の縄のように伸びていることから、高台の縄手道(まっすぐな道)、転じて高縄となり、さらには高輪になったといわれています。戦国期の軍記物にも、北条軍と上杉軍が激戦を繰り広げた地として、「高縄原」の名が登場します。江戸時代初期には上高輪町と下高輪町に落ち着きますが、後に町奉行支配になると街は細かく分断され、数々の町名が誕生。明治・大正・昭和と市制の改編を経て、昭和42年の新住居表示による吸収合併により、現在の高輪一~四丁目が誕生しました。

かつての高輪は海に面した街で、江戸時代、海沿いには東海道が整備されました。東海道筋は高輪までが江戸の街。街道の両側に石垣を築き、門を構え、大木戸で仕切った、江戸の南の玄関口となる高輪大木戸が設けられました。江戸の治安を守るために朝6時から夕方6時まで開門し、人と物の出入りを監視する、まさにゲートとなる関所として機能。日本全国を歩いて測量した伊能忠敬が、地図を作成するにあたって起点としたのがこの高輪大木戸だったそうです。

高輪大木戸跡

西へと旅する人の見送りも大木戸まで。海を望む風光明媚な場所柄、旅人と送迎する人々を相手とする茶屋が並び、この地が往来客で賑わうようになります。

まだ大木戸が設けられる以前の寛永12年、高輪は寺町に指定され、その後の明暦の大火を機に江戸城に近い地域から焼け出された数多くの寺院が移転してきます。すでに景勝地として知られていたことから、高台には大名の下屋敷(別荘)も建てられるようになり、それを追うように大名屋敷の御用出入りの商家や、寺院への参拝客を目当てとした商店が並び、街を形成していきました。

宮家や政財界人が邸宅を構えた邸宅街としての系譜

開国後の高輪では、ひとつの大きな事件が起こります。日本最初のイギリス公使館が置かれた東禅寺を文久元年、攘夷派の水戸藩浪士14人が襲撃。公使オールコックは難を逃れましたが、その様子は挿絵入りでロンドンの新聞に掲載され、一大ニュースとして報道されました。イギリス公使館は後に名称を高輪接遇所と変え泉岳寺門前に移転。公使館閉館後は、新政府の外国人接遇所として外国使節との交渉に使われました。

明治維新を迎えると大名屋敷は政府に没収され、やがて広大な敷地跡地には宮家や名立たる政財界人の邸宅が建てられるようになります。熊本藩細川家の中屋敷跡地に建てられたのは高輪皇族邸。初代内閣総理大臣・伊藤博文が邸宅地に選んだのは、現:高輪四丁目に広がる約11,200坪に及ぶ高台敷地。明治22年に三菱財閥初代総帥の岩崎久弥が購入し、二代目総帥で日本銀行総裁も務めた岩崎弥之助が高輪別邸を建築。現在は三菱グループの倶楽部として使用されています。

第二次世界大戦後の宮家解体・華族制度の廃止によって売却された敷地には、アクセスの良さを見込んだホテルが誕生します。北白川宮邸跡地はグランドプリンスホテル新高輪に、毛利公爵邸跡地は品川プリンスホテルに、竹田宮邸跡地はグランドプリンスホテル高輪となり、明治44年に建てられたバロック様式の洋館は当時の雰囲気を湛えた貴賓館に改修されました。

昭和43年、都営浅草線は「泉岳寺」「高輪台」駅を開業し、京浜急行電鉄との相互直通運転を開始。成田との直通運転を行っていた都営浅草線は平成5年、羽田とも直通で結ばれるようになります。平成12年には都営三田線と東京メトロ南北線の「白金高輪」駅が開業。平成15年にJR「品川」駅に東海道新幹線の停車駅が開業すると、品川に隣接する高輪エリアの利便性はますます向上。ホテルやマンション用地として、いちだんと脚光を浴びるようになりました。

国家戦略特区となって国際ビジネスの交流拠点に

JR「高輪ゲートウェイ」駅が誕生するのは、都営浅草線「泉岳寺」駅を間近とする、JR「田町」駅とJR「品川」駅の間。品川車両基地跡地の「泉岳寺」駅側が「品川開発プロジェクト」によって、大きな変貌を遂げます。

「駅と街が一体化する」をコンセプトに掲げるJR「高輪ゲートウェイ」駅は、新国立競技場でも知られる隈研吾氏が設計を担当。和を感じられるデザインが目を引く新駅に加え、交通広場や歩行者広場も整備され、世界に繋がり、地域を繋ぐ、エキマチ一体の都市基盤が形成されます。

都心有数の規模で開発される「品川開発プロジェクト」のコンセプトは「グローバル ゲートウェイ 品川」。第Ⅰ期の開発は4街区が計画され、JR「田町」駅寄りの1街区は住宅とインターナショナルスクール等が入る地上45階・地下3階建て。2街区は文化創造施設が設けられる地上6階・地下4階建て。3街区はオフィスを中心に、商業施設や生活支援施設等から成る地上31階・地下5階建て。2棟構成となる4街区は、ともに地上30階・地下3階建てで、北棟はオフィス、ビジネス支援施設、商業施設等、南棟はオフィス、国際水準の宿泊施設、カンファレンス施設、商業施設等で構成されます。5棟の総延床面積はなんと約851,000㎡。メガスケールの街づくりとなる当プロジェクトは、令和6年頃の街開きに向けて着々と開発が進められます。

 

高輪エリアで繰り広げられる「品川開発プロジェクト」は、まだこれだけでは終わりません。第Ⅱ期も構想され、JR「品川」駅寄りに、5街区・6街区の開発を計画。令和9年にはJR「品川」駅のリニア新幹線の開業も予定され、ますますゲートとしての役割を担うことになる高輪エリア。数年後という近い未来に新たな都市景観を描き出す高輪は、多様な都市機能を備えた国際ビジネス交流拠点へと大きく躍動します。

TIPS

主君とともに忠義の四十七士が眠る泉岳寺

高輪二丁目にある泉岳寺は、忠臣蔵で知られる赤穂浪士の墓がある寺です。泉岳寺は赤穂藩主浅野家の菩提寺であることから、赤穂浪士は吉良上野介を討ち取った後、泉岳寺を目指し行進しました。また、高輪皇族邸が建てられている熊本藩細川家の中屋敷は、赤穂浪士大石内蔵助ら17人が切腹した場所でもあります。

毎年4月と12月には「赤穂義士祭」が行われ、冬の義士祭では討ち入りの装束をまとった義士行列が中央区役所前からスタート、歌舞伎座、増上寺を練り歩き、泉岳寺へと到着し、浅野内匠頭の墓前に一同が集まる頃には、祭りもピークを迎えます。参道には多くの露店が立ち並び、閉門の午後10時まで老若男女で大いに賑わいます。

墓石は浪士がお預けとなった大名家ごとにまとまって建ち、境内には貴重な資料を集めた「赤穂義士記念館」が併設されています。

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