エリア特集

REALTY PRESS
両国

2019年11月8日

新たな取り組みが人々をさらに街へと呼び込む、
江戸文化を今に伝え国内外に発信する伝統の街、両国。

相撲の聖地として知られる両国は、平成12年の大江戸線「両国」駅開業により、
JRと地下鉄の2路線が利用できる利便スポットとしても注目を集める街になりました。
近年、江戸時代より育まれてきた街特有の歴史と文化を貴重な資産としながら、
エリア特性に応じた再開発や整備が続々と進められる「両国」をご紹介します。

両国橋から始まった、町割りも美しい相撲の街。

両国界隈は江戸時代、防火対策を中心とした都市計画に基づいて開発が進められた街です。きっかけとなったのは江戸城本丸をも焼失させ、市街の大半を焼き尽くした明暦の大火。軍事・防衛上の観点から隅田川に架橋させなかった幕府の方針が、逃げ場を失った多くの人々の命を奪ってしまいました。幕府は犠牲者を弔うために回向院を建立し、都市復興に着手。大火から2年後には隅田川に初となる両国橋を架け、地盤の低い湿地帯に田畑と原野が広がる本所・深川地域の開発に乗り出しました。竪川・大横川・南割下水など、防火用水を兼ねたまっすぐに走る運河や掘割が開削され、掘り上げた土で田畑を埋立て、武家屋敷を中心とする市街地が形成されていきました。

お分かりの通り、両国の地名の由来は両国橋にあります。後に武蔵国に編成されますが、架橋当時、隅田川の東側は下総国でした。二つの国をつなぐ橋だから両国橋。両岸の総称として両国が使われていました。橋の袂に設けられた広小路と呼ばれる火除け地には、仮設の水茶屋や露店、芝居小屋、見世物小屋などが建ち並び、江戸有数の盛り場へと発展。橋の西詰めである日本橋側の両国地名は昭和46年に消滅しましたが、「両国広小路記念碑」がかつての面影を偲ばせています。

江戸時代、寺社修復の費用を賄うために勧進相撲の名のもと、寺社の境内で相撲の興行が行われていました。回向院もそのひとつ。市内の各寺社を転々としていた興行が、天保年間になると回向院が定場所となり、明治の末には境内に国技館が建設され定期興行に。その後、失火や戦争などにより両国を離れ、昭和59年両国国技館の完成で再び両国へ。相撲と両国は、切っても切れない縁で結ばれています。

人と物の流れを結び導く、ターミナルのあった時代。

明治に入ると江戸は東京に変わり、明治11年施行の郡区町村編制法によって両国界隈は本所区となります。明治末期頃から商工業の街へと歩み始めた当区は昭和22年、北部に隣接する向島区と統合され墨田区が誕生。江戸時代からの町名を継ぐ回向院周辺の本所相生町などは昭和4年に東両国一丁目~四丁目に、昭和42年には両国一丁目~四丁目に改称。墨田区が先に両国を住居表示としたことが、両国橋西詰めの日本橋側は両国広小路で大いに賑わった場所でありながら、町名使用を断念した理由といわれています。

明治37年は両国に大きな変化を及ぼす年になりました。民鉄の総武鉄道が開通し、千葉方面からの東京の玄関口となる「両国橋」駅が誕生。3年後国有化されますが、鉄道が隅田川を渡り御茶ノ水へと延伸したのは、関東大震災の復興計画に基づき総武線鉄橋が架けられた昭和7年のことでした。前年の昭和6年「両国」駅に改称された当駅は、蒸気機関車の時代から昭和後期の長きに渡って、急行や特急、長距離列車の始発・終着駅となって、日々多くの人や物を房総方面と繋ぐターミナル駅の役割を果たしてきました。

江戸時代から幾度も架け替えられていた両国橋が、木橋から鉄橋へと生まれ変わったのも明治37年です。この橋には市電(後に都電)の軌道が敷設され、後に新宿と結ばれる電車が走ります。明治43年に廃止されますが、東武鉄道の亀戸線も明治37年に総武鉄道に乗入れ、両国橋~曳舟間を運行しました。

駅の貨物ターミナル跡地は現在、両国国技館と江戸東京博物館に。江戸時代この辺り一帯は幕府の御竹蔵などが建てられた御用地で、明治維新後は陸軍用地となって陸軍被服廠が造営されました。その一画に整備された都立横網町公園には、大正12年の関東大震災の際ここに避難し焼死した3万を超える人々、第二次世界大戦の東京大空襲で犠牲となった多くの人々を合祀する東京都慰霊堂が設けられています。

歴史的資産の有効活用と再開発で、ますます元気な街に。

すみだ北斎美術館

墨田区の中で両国地区は現在「副都心ゾーンの広域総合拠点」に位置付けられ、さらなる魅力を付加した街づくりが進められています。各エリアで目標に応じた地区計画が定められ、ファッション関連等が集積する両国南地区は、その地区特性を生かした人と文化の息づく活気ある街へ。商業・工業が複合する緑二・三丁目地区は、潤いそして活気ある職住共存の街へ。亀沢地区は住宅と共存できる産業環境の向上を図る、健全かつ魅力ある都市環境の形成を図っています。

両国国技館、江戸東京博物館、刀剣博物館の周辺エリアを中心に、江戸・東京文化の拠点整備が進められるほか、ファッション文化・コンベンション地区、業務地区、教育施設地区(区立両国中学校が立地)、宿泊地区に分けられた複合型都市文化拠点の形成を計画。宿泊地区には地上31階建ての「アパホテル&リゾート〈両国駅タワー〉」の工事が進行中で、来年の春に開業予定です。

さらに両国では平成24年の東京スカイツリー完成を受けて、賑わいの連鎖を生み出し、区内回遊性を高めるために「両国観光まちづくりグランドデザイン」を策定しました。「粋に暮らし、粋に愉しむ街・両国」を目指した取り組みを展開し、平成28年には「すみだ北斎美術館」がオープン。平成28年には両国駅ビルを全面リニューアルし、「-両国-江戸NOREN」が誕生。中央に日本相撲協会が監修した土俵が設けられた施設内は、「粋な江戸の食文化を楽しむ」をコンセプトに江戸の町屋を意識した空間づくりが施されています。

JR東日本も、かつて千葉・房総方面特急列車の始発ホームとして使われていた両国駅の3番線ホームを活用し、サイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE」を平成30年より定期運行。通称「B.B.BASE」向けに、駅にはレンタサイクルショップも開業するなど、新たな取り組みで賑わいを増す両国は、独自の魅力に磨きをかけながら歩み続けています。

TIPS

歴史に名を残す人々を偲ぶスポットが界隈に。

江戸城、松の廊下から始まる忠臣蔵。赤穂浪士の主君の仇となった吉良上野介の屋敷も、ここ両国にありました。元禄15年12月14日、忠義の四十七士は討ち入りを果たしたのち、両国橋の袂で休憩をとり、一之橋を渡って泉岳寺を目指しました。当時は2,500坪を超えたという広大な屋敷跡も今はなく、昭和9年に地元の有志が土地の一部を買い取り、本所松坂町公園を整備。なまこ壁に囲まれた吉良邸跡が設けられています。

本所亀沢町にあった父・小吉の実家で誕生し、7歳まで過ごしたのは、江戸無血開城に尽力した勝海舟(幼名:麟太郎)。生後間もなく母の実家の養子となり、旧制の第一高等学校で入寮するまでの19年間を本所小泉町で過ごしたのは芥川龍之介。生涯の大半を界隈で過ごし、美術館ともなって名を残すのは葛飾北斎。区民の憩いの場として親しまれている旧安田庭園は元禄年間に造園され、明治に入り安田財閥を一代で築いた安田善太郎が買い取ったもの。また、回向院には義賊として知られる鼠小僧次郎吉の墓も。

街の風景は大きく変わってしまいましたが、その時代を生きた人々、その時々の情景に思いを馳せてみたくなるのが、江戸時代からの歴史に彩られた両国の魅力なのかもしれません。

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